2000年-2001年 Costa Rica Trip Story
By Taku from San Diego

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 すばらしい波、一年中トランクスでのサーフィン、壮大な自然、美味しい果物、フレンドリーな人々、いろいろな動物達、コスタリカを語るのにこれらはとても欠かせない事だろう。

 僕は12月の中旬から1月の中旬まで、約1ヶ月かけてコスタリカにサーフトリップに出かけた。そもそも僕がコスタリカに行く事に決めたのは、一人のオーストラリア人の女の子に出会った事から始まった。

  僕は2000年の大学の夏休みの間、ルームメイトがサンディエゴのデルマ―ビーチと言う所で、サーフィン、スケート、スノーボードスクールを経営してて、そこで僕はサーフィンインストラクターとして働いていた。そのインストラクターの中の一人にロビンがいた。

 彼女は2年半くらい前にオーストラリアを出て、バリ、スペイン、フランス、ポルトガル、フィリピン、サウスアフリカ、コスタリカ、カナダなどの国々のサーフトリップの途中にここサンディエゴにたどり着き、彼女の友人のつてで、僕と同じサーフィンスクールで働く事になった。彼女はとてもフレンドリーなオージーで僕らはすぐに意気投合した。彼女がそもそもサンディエゴに着たのは、波乗りと次のトリップの旅費を貯める為であり、そして彼女はまた11月にコスタリカに戻る予定で、僕も冬休みに彼女の所に転がり込む事に決め、またそこで21世紀を迎える事にもした。約1ヶ月のコスタリカ サーフトリップの始まりだ。


常夏の国、コスタリカ
※白いサンドビーチ、パームツリー、インペリアルビーチにココナッツ!コスタリカトリップの始まり。

 12月18日、僕はSDを出て、ヒューストンで乗り換え、コスタリカの首都サンホゼに着いた。SDから約10時間くらいの旅だった。

 空港にはロビンが迎えに来てくれてて、僕らは2ヶ月ぶりの再会となった。その日は長旅の疲れもあって、エスカズと言う町、サンホゼから車で20分くらいの、ロビンの友人のうちで爆睡した。次の日の朝僕らはロビンの滞在先、マヌアルアントニオという町までバスで行った。

 今回僕は貧乏旅行と言う事もあって、車をレントする事が出来なかった。しかし、レンタカーの値段は4WDの4人ノリで、1週間約2万円位。もしコスタリカに行く事があれば、車を借りる事を強くお勧めします。なぜならばサーフポイントには4WDでなければ行けない所が沢山あり、バスで移動するよりも数倍時間を節約できるから。

 バスでの移動中の窓から見える景色は、常夏の国コスタリカ。まだ人々に荒らされていないジャングル、そこには数えきらない図鑑でしか見たことの無いような植物達。そして川の中にはワニなどすばらしい大自然を、2時間ほど楽しみながら、ロビンの滞在先まで着いた。

 その家はジャングルのど真ん中で、ロビンの友達のちょっとした別荘みたいなもので、とてもシンプルな物だった。もちろんテレビなどは無い。と言うよりもそんなものは、まったくと言って良いほど必要ない。窓からの景色はというと、沢山のサルが木の枝との間を行き来していて、目の前のビーチに行けばイグアナなどが見ることが出来た。外の景色がTVで見ていたジャングル特集などの世界なのだ。


ボートトリップ
Queposという町(僕が滞在していたロビンの家からすぐの町) のシークレットポイントに行くにはボートで川を渡らなければならない。写真左から僕(タク)、ロビン、ジェヘリ、カトー。ジェヘリとカトーはロコボーイ!


  残念な事に目の前のビーチは湾になっていて、この時期は波乗りできるほどの波は無かった。もし目の前のビーチに波があれば、一生ここにいただろう。なぜならばそこはプライベートビーチ、周りには誰もいない貸し切りのビーチ。「ひゅ〜〜パラダイス!」

 しかし僕らはサーファーです。波が無ければ何も始まりません。 このため僕らは、家から歩いて30分くらいのマヌアルアントニオと言うビーチ近辺で、ほとんど毎日波乗りした。

 そこはビーチとリーフの合わせて、四つのポイントがあり、リーフブレイクの波質は、千葉県の部原のメインリーフの波みたいで、ちょっと癖のある波だった。レフトの方が波は良く、ほとんどの波は、インサイドまで乗れる波で、インサイドのほうに行くと、結構掘れてきて走りまくる波だった。

 ロコのキッズもかなりうまくて、何人かのロコはエアーなどを決めていた。残念な事にここのポイントはサウススウェル向きで、僕がいたのは12月と言う事もありサウスはいってこなかった。けれどほとんどビーチブレイクでは、毎日胸くらいはあり、水もめちゃくちゃ温かく、気持ちよくトランクスサーフが楽しめた。ティコ(コスタリカではロコのことをティコと呼ぶ)の奴らもみんなフレンドリーで、ぼくも大学でスペイン語のクラスを取っていて、なんとかコミュニケートは取れた。何人かは英語もかなり話す事が出来たので心配はなかった。

 ちなみにマヌアルアントニオは、ゲイとレズビアンにオープンなコミュニティーで、そこらへんに世界各国のゲイの人々がいた、ちょっと異様な感じもしたが、それだけピ―スな町だけあってのことでもあるといえるだろう。ともかくみんな良い人たちばかりで、この町に居る間僕が感じたのは、何かがこの町を包んでいるような、例えてみると、カプセルか何かで包まれているような、危険という言葉は必要のない「ピースフル」。そんな町だった。

 

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